銀座店舗(MUSEE GINZA併設、金〜日13:30-15:00)においても商品の一部を展示、公開しています。

Parnas-Wien Interior @MUSEE GINZA

19世紀末ウィーンで開花した
デザイン革命「分離派様式」
その装飾には、過去の伝統から分離して新しい芸術を
創ろうとした芸術家達の想いが刻み込まれています。

About パルナスウィーンインテリアとは

銀座90年の歴史を刻むモダニズムビルを所有。建築保存をしながら営業しています。

東京銀座、昭和通りに面して、昭和7年(1932年)に建築されたKawasakiBrandDesignBldg.。2013年より、パルナスウィーンインテリアを開業しております。 19世紀末のウィーン分離派様式に焦点をあてて、ウィーンのインテリアの魅力をお伝えしています。主宰するのは、川崎弘美。1978年より、銀座和光 勤務を経て、さまざまな建築・室内装飾デザインに従事。プロデュースするパルナスウィーンインテリアは、ウィーンのインテリアを紹介する日本で数少ない路面店です。

Keyword 新しい芸術は「ウィーン分離派」を母体として、その後、建築、インテリアデザインを手がけた「ウィーン工房」にも派生していきました。19世紀末ウィーンの芸術を語るためには、3つのキーワードから紐解くことができます。

  • 01

    ウィーン分離派
    (セセッション)

    Wiener Secession
    1897年にウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新しい造形表現を主張する芸術家のグループ。ウィーン分離派(セセッション)の活動はアーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーヴォーなどに影響を受け、モダンデザインへの道を切り拓きました。クリムトに見られるように世紀末の官能的、退廃的な雰囲気も感じられます。1880年創業のカフェ・シュペルルにおける「七人クラブ」と呼ばれた建築家、芸術家の集まりからスタートしました。

    キュンストラーハウスという旧体制の団体に対し、若い芸術家達はその保守性に不満を抱き、1897年にクリムトを中心に造形美術協会を結成されましたが、認められませんでした。そのため、クリムトらはクンストラーハウスを脱退して、ウィーン分離派を結成。絵画、彫刻、工芸、建築などのジャンルから一流の人材が集まり、過去の様式に捉われない、総合的な芸術運動を目指しました。主な活動は、機関誌の発行と、展覧会の開催であり、他国との芸術家との交流にも尽力しました。

    展覧会は、ウィーン分離派展と呼ばれ、毎回テーマが決められた企画展で、1898年3月の第1回展は、オーストリア・ハンガリー帝国造園協会の建物で開催され、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の来場を賜わるという栄誉に浴し、ヨーロッパ全土から6万人近い来場者が詰めかけ大成功を収めました。

    第2回展からは、建築家オルブリヒの設計による新しく完成した専用の展覧会場であるウィーン分離派館で開催されました。伝統的な街並みが残るウィーンの中で、白い壁面、黄金のキャベツと評されたクーポラ、月桂樹、メデューサなどの壁面装飾が個性を放ち、当時、市民の間で物議を醸すこととなりました。
    このウィーン分離派館は、展覧会に応じて可動壁などで空間を分割することが可能であり、自由な空間構成を取っており、展覧会ごとに展示デザイナーが決められ、展示デザインと展示作品が同格に扱われた点が当時としては画期的でした。長さ34mの「ベートーヴェン・フリーズ」は、1902年のベートーヴェン展のためにクリムトが、第9交響曲を聞いてそれを絵画的に解釈した作品で、現在も地階で恒久展示されています。
  • 02

    ウィーン工房

    Wiener Werkstätte
    ウィーン分離派の活動と並行して、1903年、実業家フリッツ・ヴェルンドルファーとウィーン分離派の中心的メンバーである建築家ヨーゼフ・ホフマン、画家コロマン・モーザーは、建築デザイン、室内デザインを手掛ける会社として「ウィーン工房」が設立されました。デザイナーと職人との緊密な共同作業により、高い水準、かつ、それまでにない独自のインテリアエレメントが制作され、歴史にその名を刻んでいます。

    ウィーン工房には、家具、金属、陶芸、ガラス、テキスタイル、製本、服飾、絵葉書など、多部門に及ぶ工房があり、各工房の室内は機能的に色分けされ、連携して恊働され、当時としては画期的な工房としてヨーロッパで注目されました。初期のあたる設立期には、ホフマンとモーザーが中心的なデザイナーとして活躍し、《プルカースドルフ・サナトリウム》 《ギャラリー・ミートケ》《モード・サロン・フレーゲ》《テラマーレ邸》《ヘルマン邸》など、斬新な室内空間、インテリアをデザインし、その中から、19世紀末ウィーンを象徴するような家具や工芸作品がウィーン工房にて、一般向けに生産されるようになりました。

    家具、照明は、それまでになかった幾何学的な形状でデザインされ、床、壁、家具の張り地には、世紀末ならではの退廃的な雰囲気をも持つ有機的文様や幾何学文様を施されました。そのテキスタイルは、1894年創業のバックハウゼン社によって製作され、100年経った現在でも、驚くべきことに当時のデザインそのままで復刻生産されています。

    ウィーン工房で生産され、流通した工芸品(特にガラス器や銀器)は、ウィーン市内のオーストリア応用美術博物館(通称MAK)に収蔵され、当時を伝える貴重な作品として公開されるほど価値のあるものである一方、アンティークとして人気を誇るため、一部は市場に流通しています。しかし、プロダクトとしての希少性が高く良い品質の工芸品の入手は難しくなってきています。
  • 03

    キュンストラーハウス

    Künstlerhaus
    19世紀末以前のウィーンでは、フランスのサロンや英国のロイヤル・アカデミーにあたる、「キュンストラーハウス」という旧体制の芸術団体が存在していました。この格式ある芸術団体には、展覧会の開催を目的とし、多くの芸術家が在籍しており、展示作品の選定は情実にとらわれた方法であり、芸術の正当な評価ではありませんでした。その展覧会場は伝統的な建築様式で、展示室はすべて固定されそのままの状態で使用し、床には植栽で囲まれた彫刻が置かれ、天蓋を設けるなど華美な装飾が施された中、絵画作品は隙間なく展示されていました。当時の批評家へルマン・バールは、「キュンストラーハウスはまるでバザールである。オーストリアでは新しい方法を考えなければならない」と批判しています。その後、やや簡素な展示方法に変化したものの、展示自体がデザインされたものではありませんでした。

    一方、旧体制に反旗を翻して1897年に設立されたウィーン分離派は、「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」という標語を掲げ、新しい芸術の表現方法をとりました。従来の伝統様式とは異なる、独特の外観が特徴の展覧会場を舞台に、革新的な展示が展開され、純粋に作品の芸術的価値を基準にして選ばれた展示作品に合わせ、展示デザイナーによって展示空間がデザインされるものでした。現代の美術館の展示手法の源流がここにあるといっても過言ではないのです。

    左はキュンストラーハウスの展覧会。右はセセッションの展覧会(第18回分離派展)。その違いは一目瞭然です。そのホワイトキューブは、現代の美術館に継承されることになります。

Pick Up ピックアップ

公式サイトのご紹介

パルナスウィーンインテリアでは、 19世紀末ウィーンに焦点をあて、質の高いインテリアをご紹介しています。1900年前後のウィーンは、あらゆる分野の芸術が一斉に開花した華麗な時期でした。 家具、工芸などの応用美術が、純粋芸術といわれる建築、彫刻、絵画と同格に認められ、インテリアを含めた空間デザインの系譜において、重要なターニングポイントとされています。 旧体制の芸術団体キュンストラー・ハウスに反旗を翻し、過去の伝統から“分離”して新しい芸術を創ろうとしたウィーン分離派の芸術家たち。その強い想いが、簡潔な造形美に刻み込まれています。

主宰ごあいさつ

パルナスウィーンインテリアを主宰する川崎弘美は、1978年 銀座和光 でキャリアをスタートし、 1989年、インテリアコーディネーターとして独立しました。 2013年、MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesign開廊とともに、 銀座の路面店「パルナスウィーンインテリア」をオープンし、ウィーンのデザインの魅力をお伝えしています。 現代でも入手可能な質の高いインテリアエレメントの提案を通じて、 19世紀末ウィーン分離派(セセッション)様式の世界を、皆さまのインテリアにまで広げていきます。

コロマン・モーザーの偉業

王侯、貴族が権力を握っていた時代、インテリア様式のすべて決定していたのは、彼らでした。 権力者が変わるたびに、英国ではビクトリアン様式やエドワーディアン様式、フランスではロココ様式やアンピール様式 というように、家具、照明具はもちろんのこと、食器や銀器に至るまで、総合的にインテリア様式が変化しました。 しかし、政治的革命によって、市民に権力が移ると、自由なインテリア様式が誕生したのです。 19世紀末ウィーンにおいても、市民による独自のインテリア様式が誕生しました。 それを牽引したのが、新しい芸術団体であるウィーン分離派であり、ウィーン工房だったのです。 パルナスウィーンインテリア主宰 川崎弘美は、19世紀末に活躍した芸術家の中で、コロマン・モーザーに注目しました。 彼は、日本ではそれほど知名度がありませんが、優れた独自のデザインを行なった総合芸術家でした。 モーザーの空間デザインに焦点をあてて、研究を継続しています。その一部をご紹介します。